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 少年時代からのテレビの変化をリアルタイムで見てきました


自己紹介

 2010年8月に定年退職しまして、大阪府堺市で暮らしています。退職後もテレビを忘れたくないという思いです。
 家電メーカーに就職して7年目にアフターサービス部門に移り、家電製品全般をさわりましたが、テレビでは真空管テレビから液晶テレビの初期まで関わりました。
 昭和25年生まれですので、昭和30年代からのテレビの変化を見て来ました。


   テレビの移り変わり

1960年〜

 1950年生まれです。(昭和25年)
 昭和30年代前半の月光仮面が放送されていた頃、我家にはまだテレビがありませんでした(近所の家に観せてもらいにいきました)。その頃のテレビの 主流は14インチのモノクロテレビでした。真空管ですのでスイッチを入れても真空管が暖まるまでは 映りません。キャビネットは鉄板でした。
 テレビが家に来るまでは、ラジオを聞いて過ごしていました。「赤胴鈴之助」「お父さんはお人好し」「一丁目一番地」が記憶にあります。

 小学校3年生の時、我家にも待望のテレビが来ました。しかし、月光仮面の放送は既に終わっていました。 この頃、テレビとは関係ありませんが、インスタントラーメンが発売されました。日清食品のチキンラーメン です。パッケージのデザインは今もほぼ同じです(昭和30年代の話です)。

 中学校、高校時代のテレビは大きさが変わった位で殆ど変化がなかったように記憶しています。真空管全盛の時代でしたが、そんな中でも 高校時代はグループサウンズが大流行でした。ブルーコメッツ、ワイルドワンズ、タイガース、テンプターズ、 オックス、ビレッジシンガース、ジャガーズ、スパイダース、この他にも多くのグループがありました。ビートルズの 出現は、グループサウンズの少し前で私は中学生でした。華やかなGSもモノクロで見ていたのですね。

 高校を卒業して、社会人になった頃には、真空管式のカラーテレビがありましたが、裕福な家庭 しか購入出来ませんでした、もちろん我家はモノクロテレビでした。  その頃のカラーテレビは、図体は大きいけれど木製キャビネットの19形が主流でした。やっとUHF放送が 始まった頃で、UHFのアダプターが販売されました。ビデオテープレコーダーに関しては 7号オープンリールで、ドラム径が110ミリの統一T型が存在していました(モノクロで家庭用ではありません)。

 この頃のテレビ放送は、まだ大部分がモノクロ放送であり、カラー放送の場合は新聞のテレビ番組欄に、[カラー]という表示 がありました。

 この頃の真空管テレビのシャーシーの裏を見ますと、一面にコンデンサーや抵抗器がすき間無く配線されており、一本、一本、 手作業で半田付けされていました。

1970年〜

 1970年(大阪万国博覧会があった年)になりますと、やっとオールトランジスター式のカラーテレビ が出てきました(日立ポンパ号の飛行船が飛んでいたのを思い出します)。もちろんオールチャンネルでアダプターなしでUHF放送も受信できました。
 我家にカラーテレビが初めて入ったのはこの頃です。17インチの基本的なタイプでした。

 私がサービスマンになった1975年(昭和50年)には、修理で訪問するテレビは殆どカラーテレビでした。その頃は モノクロテレビあり、真空管式テレビあり、オールトランジスターテレビありでした。サービスかばんの中の半分は真空管が占めていました。 よく使ったのは水平出力管でした。

 真空管式でも、真空管さえ交換したら治るというような甘いものではありませんでした。もちろん、真空管で治る場合が多いのですが。

 オールトランジスター式になったおかげで、カラーテレビもバラエティーに富、16インチ、18 インチ、20インチがありました。

 オールトランジスター式でもブラウン管テレビなので、ブラウン管のヒーターが温まるまで映像が出ません。そのため、常にヒーターに100% ではありませんが通電されており、スイッチON後ストレスなしに映像が出るようになっていました。

 リモコンでチャンネルを変える先進的な物もあり、チューナーの軸にモーターが取り付けられて いました。70年台後半ころより、タッチ式のチャンネル切換えのテレビが現れ、それまでガッチャン、ガッチャン 一局づつチャンネルを換えていましたが、ワンタッチで換える事が出来るようになりました。機械式チューナー から電子チューナーの時代になりました。家庭用のビデオテープレコーダーも本格的に普及しだします(VHS方式、ベーター方式)。

1980年〜

 80年代は赤外線のリモコン付きが普通になり、中頃にはブラウン管のサイズも22インチ、25インチ、26インチ、29インチ へと大型になりました。
大型化に伴い画質も向上しました。回路的にも大幅にIC化されました。音声多重放送も 一般的になりました(ステレオ放送、2ヶ国語放送)。
 チャンネル表示も画面上に表示ができるようになり、ステレオ放送と2ヶ国語放送が色で判るようになりました。

 80年代の後半には衛星(BS)放送も始まり、衛星放送内臓のテレビも販売されています。
 アナログテレビですけど、文字多重放送に対応したテレビもあり、ゴーストでうまく表示できずにサービスマンは苦労したものです。 

 89年1月8日より、昭和から平成へと元号が変わりました。
画面が4:3のブラウン管テレビとしては、完成していました。昭和レトロと言えるのは、1970年以前の手配線で 組立られた真空管テレビの事になると思います。

1990年〜

 90年代は、16:9のワイドテレビが販売されます。アナログ方式のハイビジョン放送(BS−9) も開始されましたが、地上アナログ放送より先に停波されました。

 アナログのテレビでもチャンネル切換え、明るさ調整、振幅調整、色の調整等の調整はデジタルに進化して、調整つまみがなくなり リモコンで調整できるようになったのはこの頃だったと思います。

 90年代後半には、通信衛星を利用したCS放送(パーフェクTV、ディレクTV、スカイTV)が始まり、デジタル多チャンネルの 時代を迎えます。

 この頃のワイドテレビは、4:3のサイズで放送されている映像をできるだけ違和感のない様に左右に広げて見ていました。アナログ 時代の映像は全て4:3です(アナログハイビジョンは別)。

2000年〜

 2000年代(BSデジタルハイビジョン放送、110度CS放送が始まる)は、本格的に液晶テレビが普及しますが、最初の頃は非常 に高額なものでした。この頃製造されたハイクラスのブラウン管テレビはデジタル時代に対応するプログレッシブタイプ で複雑なものでした。大きさも28〜32インチで非常に重く修理に苦労させられました(フラットタイプのブラウン管は特に重かった)。
 デジタルに対応するためD端子(アナログ信号ですが)が備わっていました。

 後半になりますと、液晶テレビの価格も安価になり、地上デジタル放送も始まり一気に普及しました。
 BSデジタル放送をハイビジョン画質で録画出来るHDD内臓のDVDレコーダーも急激に普及します。
 (地上波デジタル放送は2003年に、首都圏、名古屋、大阪から始まりました。)

 2005年頃だったと思いますが、レコーダーとの接続に映像・音声を一本のケーブルで接続できる HDMI端子(非圧縮のデジタル信号で暗号化されている)が出現しました。

2010年〜

 2010年代に入りますと、光テレビとか、3Dとか、ホームネットワークとか、外付けHDDとか、 ブルーレイレコーダー内臓とか、どんどん進化して行きます。
 2011年7月24日に地上アナログ放送も終わってしまい、2018年12月からは4K・8Kの本放送が始まりました。
 3Dは、どうなってしまったか....。

 以上、アナログ波が停止に鑑み、思い出しながら記述しました。思い出せない事や、思い違いもあるかも知れませんが、そのつもりで お読み頂けたらと思います。

 私達、団塊の世代(厳密には私達の1年前まで)は、戦後の復興と共に生きて来た年代であり、テレビの創成期から4Kテレビまでの変化や、他の電化 製品、自動車、生活の変化の様子をリアルタイムで見てきた世代です。
 昭和30年代前半には、腕木式方向指示器の車が実際に走っていましたし、テレビもまだまだ持っている家は少数でした。

 ちなみに、私が小学校低学年の時、我家にあった電化製品と言えば裸電球に傘を付けた照明器具、ラジオ、アイロンくらいでした。

 その頃の電化製品は、電気釜、電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気掃除機というように、頭に電気が付いていました。家の電化製品が一つ一つ増えていくのが嬉しい時代でした。

 

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